一番古い記憶を明確に覚えている。
それは自分が廊下の右端をブリキで出来た自動車、ボディの赤が印象にあるから多分消防車。
それを四つん這いになりながら右手で走らせていた。
その廊下の左側を白い靴に白いタイツに白い服で頭に白い帽子を被った女性が二人話しながら自分の方に向かって歩いてきた。
彼女たちは看護婦だった、つまりそこは病院だった。
亡き母から教えられたことがある、それは自分が一歳の時に腎臓病で入院したことがあると。
母には四人の子供がいた。しかし長男と次女を幼くして病で亡くしいる。
そんなこともあり母は子供の病気には人一倍敏感だったようだ。
そんな母は僕のおむつが濡れるのが長いことに疑念を覚えすぐに病院に連れて行ったらしい。
そこで医者からよくこの程度のことで気がついたといわれ実際に自分は初期の腎臓病だったようだ。
この世に生を受けてから病弱な僕は医者の世話になる幼少期、少年期を過ごすが入院経験は小学生になるまではない。
だからこの一番古い記憶は僕が一歳の時のことだといえる。
物心がついた時我が家には10人以上の「人」がいた。
父母と姉はとわかっていたが他の人達が誰であるかを理解するまでには少し時間がかかったような気がする。
自分の実家は呉服屋だった。
そして家族以外の人達は今は死語となった住み込みの従業員や丁稚、そして婆やだった。
自分にとって特に難解だったのが婆やだ。
彼女は「おばさん」と呼ばれていた。
当初僕はおばあさんとおばさんの区別がつかなかった。
つまりおばさんはおばあさんと同じと思っていた節があった。
しかしその「おばさん」と呼ばれるおばあさんはなぜか母に敬語で話していた。
それが不思議でしょうがなかった。
僕はいつもその婆やにおんぶされていた気がする。
根っからの商売人の母とどこか文化人のような父。
朝は父はいつも新聞を読んでいて母が番頭さんや従業員に、今でいえば朝礼で訓示をしていた。
朝から晩まで店頭で途切れることなく来店してくれるお客様にきも乃をおすすめしていた母が台所に立つことはまずなかった。
食事は朝昼晩の全てを婆やが担っていた。
作る食事量も十人以上だから相当な量だったし食べるにもローテーションだった。
はじめに父と姉に自分と番頭さんや男性の住み込みの従業員が食べた。
父は悠然と食事をとっていたが番頭はじめ男性の従業員は食事が終わるとすぐに交代して、次の女性の従業員と入れ替わった。
そうやって数回のローテーションで一回の食事は終わった。
これが朝昼晩と三回の食事があるわけだから婆やは大忙しだった。
食事の準備をして給仕をしてあとかたずけをする。食事と食事の準備の間には掃除も洗濯もしていた。
その合間には、いや合間は想像できないから僕をおんぶしながら仕事をしていたのかもしれない。
婆やの得意料理は何故か中華そばだった。
出入りの肉屋さんに鶏のガラを持ってきてもらって作るスープは今でもその味を覚えてるほど美味しかった。
麺も製麺所から持ってきてもらっていた。
自分のラーメン好きのルーツはここにあるのかもしれない。
漠然とした記憶でしかないが婆やが僕の子守ができないときは女性の従業員が抱っこしてくれていた気がする。
女性の従業員たちは僕をとてもよく可愛がってくれた。
8歳年の離れた姉が幼い頃に着ていた洋服やきも乃を着せられた記憶があるし現に古いアルバムにも白黒の写真で残っていた。
多分彼女たちにとっては僕は着せ替え人形だたのだと思う。
そんな幼い頃に女装させられていた自分。
今にして思えばよく道を外さなかったものだ。
時には腰紐で胴体を巻きつけられその腰紐のもう一端を柱にくくりつけられていたこともあったような気がする。
その時のおもちゃは算盤だった。
勿論父母が算盤という大切な商売道具をおもちゃにして与えるわけもなく、腰紐で柱にくくりつけられた行動範囲の中にたまたま算盤があったということだったと思う。
その算盤を逆さまにして玉が床につくようにして押したり引いたりして遊んだ記憶がある。
ちょうど病院の廊下で自動車のおもちゃを四つん這いになりながら押して遊んでいた、一番古い記憶と同じように。
でも、やはり幼い頃の記憶の大半は婆やとともにあった。
婆やはまるで本当の僕のおばあちゃんのように僕の人生を見つめながら生きた。
時が流れて僕が三十代の頃だった。
その婆やの体がいよいよ動かなくなっり食事や家事をこなせなくなった時、彼女は老人ホームのお世話になることになった。
入所の日、自分が運転して母とともに婆やを送った。
その老人ホームはまだ新しい建物で豊かな自然の中にあった。
婆やの新居は畳を張り替えたのだろうか真新しい香りがした。
日当たりのいい部屋に差し込む日の光が畳に反射していた光景を今でも覚えている。
入所の手続きを終えた僕と母の帰りを見送りに玄関まで来た婆や。
母がいつまでも元気でというと婆やも同様に僕と母に声をかけてくれた。
そして綺麗な老人ホームに入居できたことへの精一杯の謝意を言葉にしてくれた。
お互いに潤む目を堪えていた。
今ここで涙をみせてしまってはいけないことをお互いにわかっているようだった。
僕は言葉に詰まった。
何かを発してしまったらそれと同時にこみ上げていた感情が一気に溢れ出てきそうだった。
車で帰る母と僕をずっと婆やは見送ってくれた。
いつまでも手を振る姿がバックミラーに映っていたがその時片方の腕で目のあたりを擦るような仕草が見えた。
多分目には光るものがあったのだろう。
いつになく会話のない帰り道の車中。
母も僕も言葉なく泣いていた、心の中で涙を流していた。
その婆やの訃報を聞いた時、母はすでに他界して父は脳梗塞で体の自由がきかない状態だった。
自分が葬儀に参列した。
遺影は僕の覚えてる婆やのとても穏やかな顔だった。
喪主は婆やの遠戚の人で初対面だった。
喪主の宗派での葬儀だったのだろう浄土真宗だった。
自分は毎朝仏壇で合唱して読経するのが日課だがその後ご先祖様やご縁のあった方々にご挨拶をする。
それは父母に始まりその後幼くしてこの世を去った自分の兄弟、それから父母の両親である双方の祖父母。
その後生前ご縁のあった方々の俗名をお呼びしてから、どうぞ御霊の安らかならんことをとご挨拶するのだが婆やはその三番目に呼ばせてもらっている。
婆や、今はあちらの世界で僕の父母と会っていることでしょう。
思い出話に花が咲いてるでしょうね。
あなたの穏やかの顔を思い出します。
有難う。
そしてどうぞゆっくりとおやすみください。
中目黒在住時のインテリア
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