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四十九日法要

四十九日法要


 

仏の教えでは息を引き取ってから七日毎に七回の審判を受け涅槃に渡るとされています。

その七回目が四十九日法要、涅槃寂静の状態になったわけです。

 

先々週の土曜日、10月13日亡き姉の四十九日法要が行われました。

浄土真宗では即身成仏の考えがありますから、息を引き取ったその次の瞬間、もう仏になっていたのかもしれません。

 

法要が済んでから納骨しました。

姉はこれからずっと白金の地に眠り続けます。

 

 

 

 

 

姉との想い出

邦画


 

亡き姉貴には沢山のことを教えてもらいました。

 

実家の呉服屋の同じ町内に映画館がありました。その映画館に連れて行ってくれたのも姉でした。

僕の記憶が確かならば、姉に初めて連れて行ってもらって観た映画は舟木一夫主演の絶唱だったと思います。

 

wikiで調べると1966年公開ですから僕が8歳、小学校3年生の時ですね。

でも。。。感覚的にはもっと幼い頃、

そう、幼稚園ぐらいとの時と記憶しているんですがね。。。

 

 

 

 

 

洋楽


 

これも何度かブログに書いた気がしますが、ビートルズを通して洋楽を教えてくれたのも姉でした。

 

ビートルズの来日も、邦画絶唱の公開と同じ1966年だったようです。

そしてビートルズの髪の毛一本、当時価格で2000円。その応募ハガキ作成の手伝いをした記憶があるのですが。。。

 

姉貴亡き今となっては、真相は闇の中ですね^ ^;;

 

 

 

 

 

海外ドラマ


 

ブーフーウーやひょっこりひょうたん島を楽しみにしていた頃?それともその後かな?

なにしろ姉貴が熱狂していたのが「ナポレオン・ソロ」

テレビで海外の番組を見ること自体珍しかったことのように記憶しています。

 

その頃の衝撃がDNAに刻み込まれたのかな?

今でもミッション・インポッシブルをはじめとするアクションもの、スパイものにはめっぽう弱いですね^ ^;;

 

 

 

 

 

 

味噌ラーメン


 

まだ中華そばという名称が一般的だった頃、味噌ラーメンというものを初めて食べさせてくれたのも姉でした。

僕が幼稚園児か、小学生低学年で姉は多分中学生の頃だったと思います。

 

電車で数十分かけて行った街にその店はありました。

確か赤に白抜きの暖簾には、カタカナで「サッポロ」とあったような気がします。

 

生まれて初めて見る味噌ラーメンは、時々食べていた中華そばとは見た目が別物でした。

大好きなナルトがない、支那竹もない、焼豚もない。あるのはもやし。黒い鶏ガラスープは味噌の茶色にかわり、器も中華柄のない無地だった気がします。同じものといえば麺ぐらい。

 

でも食べてみると、中華そばにはない甘みを感じたのを覚えています。

 

食べることが好きになった要因の一つが、この姉との味噌ラーメン体験であるのは間違いなさそうです。

 

 

 

 

 

ダンス


 

モンキーダンスやツイストを教えてくれたのも姉貴。

 

よく仏壇とステレオの置かれた奥座敷で、親に隠れるように練習していた姉。

いつも金魚の糞のように姉貴について歩いていた僕にも、姉は手取り足取り教えてくれました。

 

僕のダンス好きのルーツは、たぶんこれですね(笑)

 

 

 

 

 

洋画


 

何度かブログに記したような気がしますが、初めての洋画に連れて行ってくれたのも姉貴でした。

 

ミセスロビンソンの誘惑シーンでは両手で顔を覆われていた気がしますが、指の隙間から覗き見たシーンに、何か大人の男と女の世界の入り口100m手前って感じを受けた気がします(笑)

 

でも一番印象に残ったのは真紅のオープンカー。

三つ子の魂百までじゃないですが、この時の衝撃がしばらく抜けることなく、今でもカブリオレに惹かれます^ ^;;

 

 

 

 

 

 

 

 

 

洋食


 

我が家には家政婦さんがいたこともあり、食事に大皿料理は出ませんでした。

全て一人前分皿に盛り分けられていました。

 

おませな姉貴は、おかず以外に盛り分けられたお茶碗のご飯を洋皿に、お味噌汁をスープ皿に移して、ナイフ、スプーンとフォークで食べていました。

 

言うまでもなく僕も右習えでした(笑)

正解じゃないまでも、洋食の食べ方のいろはも姉からの輸入でしたね^ ^;;

 

 

 

 

 

女子会


 

8歳の年上の姉は、学生時代の友達を大勢家に呼んで、今でいえば女子会?をしてました。

その場には何故か僕が同席することが多かったようです。

 

たぶん、いや間違いなく恋ばなや女の子トークもあったと思いますが、8歳も年下の弟に内容が理解できるとは思われていなかったのでしょうね。

 

でも。。。商人の子。。。なんとなく雰囲気で分かることも多かったような。。。

ませガキのバックボーンはここにあるのかも知れません。

 

 

 

 

 

旅行


 

世界の国からこんにちは。

僕が小学六年生の時に大阪で万国博覧会、エキスポ70が開催されました。

 

この万博に、僕は母と姉の三人で出かけました。

コースは大阪万博をメインに、京都、小豆島、高松をめぐる近畿四国への旅で、確か一週間ぐらいの旅だったと記憶しています。

 

この大阪万博でのメインは、アポロ11号が地球に持ち帰った月の石。

当時の待ち時間が数時間だったと思いますが、僕一人並び続けて月の石をこの目で確かに見ることができました。

 

広大な敷地の中を12歳の僕は好奇心、興味関心に素直に従って一人で楽しみました。

旅することが好きになった原点かもしれません。

 

 

 

 

 

ファッション


 

これはプロフィールにも記していますが、VANを、IVYを教えてくれたのは姉貴です。

 

実家が呉服店、仕事柄もあり服飾には人一倍気を使っていた父母。しかし、洋服のセンスを磨いてくれたのはVANとの出会いからです。

 

今の僕のセンスの原点ですね。

 

 

 

 

 

年齢差のある兄弟


 

我が家のchojolyとjijottyのように年子の姉妹だと、よく双子に間違えられました。

一般的なイメージでの兄弟の年の差は3、4歳が多いような気がします。

 

僕と姉貴のように8歳もの年の差になると、イメージ画像のように姉が高校生の頃、自分はまだ小学校低学年です。

年の近い兄弟のように一緒に遊べることも、モノも少ないように思います。

 

でもその分、文化は上意下達的に伝わり、結果として年下の弟や妹は同年代よりも、感性や感覚、流行で半歩や一歩先を歩むことになるような気がします。

現に姉との想い出をなぞると、それは否定できません。

 

今の僕の感性の大半は姉の影響下で出来ています。

つまり歩んできた人生の基礎は姉の影響が大です。

 

裏を返すと、姉も元気に生きていたら、イタリアンにかぎらず踊りながら料理を作り、ちょっと時間ができると何処かに行こうかと計画し、映画が大好きで、家の中のどこかでは音楽が流れているような生活だったことでしょう。

 

 

お姉ちゃん、僕が自分の感性に素直に生きることは、あなたの想いを実現することでもあるんだよね。

素直に、大切に生きます、あなたの分も。

 

 

 

 

 

 

精密検査

豊穣の秋のイタリアン


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コメント: 2
  • #1

    Bettyboo (火曜日, 30 10月 2018 17:05)

    烏兎匆々として
    歳月は流れても
    色褪せない想い出
    そして
    いつまでも心の中に…

  • #2

    晃一 (木曜日, 01 11月 2018 10:57)

    Bettyちゃん、こんにちは。そしてコメントありがとう^ ^

    猛暑を通り越して酷暑だった今年の夏。お盆を過ぎても一向に陰りをみせなかった酷暑の中、姉が息を引き取ってから49日、そう七週間が過ぎました。
    本当早いものですね。

    母を亡くした際に実体験を通してわかったことがあります。
    永遠の命とは相手の心の中に生じるもの。。。

    大好きだった姉も僕の心の中で永遠に生き続けます。

    改めてコメントありがとう^ ^